「できるだけ長く、住み慣れた自宅で暮らしたい」
高齢者の住まいを考えるとき、よく聞く言葉です。
長年暮らしてきた家には、思い出があります。使い慣れた台所があり、いつものトイレがあり、毎日眺めてきた景色があります。
施設へ移るより、自宅で暮らしたい。
そう願うことは自然です。
しかし、私は作業療法士として、そして実際に家族の姿を見てきた者として、一つの疑問を持っています。
自宅に住んでいることと、自宅で生活が成立していることは、本当に同じなのでしょうか。
家は変わっていなくても、人は変わります。
足腰が弱くなる。
視力が落ちる。
手先が動かしにくくなる。
そして認知症になれば、これまで当たり前に使えていた台所やトイレ、玄関、家電製品との関係まで変わることがあります。
本人が変われば、同じ家もまた、以前と同じ家ではなくなるのです。
私の祖母は、亡くなる直前まで自宅で暮らしていた
私の祖母は、亡くなる直前まで自宅で暮らしていました。
しかし、晩年の生活を思い出すと、「自宅で暮らしていた」という言葉だけでは説明できない状態でした。
畳をむしって食べることがありました。
シンクが米まみれになっていることもありました。
そして、その後始末をしていたのが私の父でした。
父は祖母の家へ通い、起きたことを片付け、生活を支えていました。
祖母は確かに自宅に住んでいました。
しかし、その暮らしは祖母一人の力だけで成立していたわけではありません。
離れた場所から家族が通い、何かが起きるたびに後始末をする。
そうすることで、かろうじて自宅での生活が続いていたとも言えます。
この経験から、私は「自宅で暮らせている」という言葉を簡単には使えないと思うようになりました。
そこに本人が住んでいることと、その人自身の力で生活が成立していることは違います。
そして、家族の支援によって生活が維持されている場合、その負担は外からはほとんど見えません。
認知症になると、家そのものの意味が変わる
住宅は、人が使うことを前提につくられています。
台所では料理をする。
浴室では体を洗う。
トイレでは排泄する。
玄関では靴を履き、外へ出る。
冷蔵庫には食品を保管する。
コンロでは火を使う。
私たちは、それを当たり前のこととして考えています。
しかし、認知機能が低下すると、それまで長年使い続けてきた場所や設備を、以前と同じようには使えなくなることがあります。
食材を適切に保管できない。
賞味期限の判断が難しくなる。
同じものを何度も買う。
火を消したか分からなくなる。
水を出したままにする。
ゴミを捨てられなくなる。
トイレの場所が分からなくなる。
玄関から出た後、自宅へ戻れなくなる。
もちろん、認知症の症状や進行は一人ひとり異なります。すべての人に同じことが起こるわけではありません。
しかし重要なのは、住宅が変わらなくても、人と住宅との関係は変わるということです。
若い頃には何の問題もなかった階段が、身体機能の低下によって危険になる。
使い慣れたガスコンロが、認知機能の変化によって火災の危険につながる。
普通の浴槽が、またぐことのできない障壁になる。
そして私の祖母の場合には、畳や台所という、ごく普通の住環境の中で、それまでとは異なる行動が起きていました。
だから、認知症のある人の住まいを考えるとき、「この家はバリアフリーか」という視点だけでは足りません。
本人が今、この家をどう認識しているのか。
どの設備を使えるのか。
何が危険になっているのか。
どこで混乱が起きているのか。
そして、その生活を誰が支えているのか。
そこまで見なければ、本当の住環境評価にはならないと思います。
「住み慣れた家だから安心」とは限らない
高齢者の住まいについて、
「住み慣れた家が一番安心だ」
と言われることがあります。
確かに、長年暮らした環境には大きな価値があります。
部屋の配置を知っている。
近所を知っている。
思い出がある。
環境の変化が少ない。
しかし、「住み慣れている」という理由だけで、その家が現在の本人に適しているとは限りません。
本人の身体機能も認知機能も変わります。
一方、家は基本的には変わりません。
その結果、以前は問題のなかった住宅が、少しずつ本人に合わなくなることがあります。
段差を越えられなくなる。
階段を上れなくなる。
浴槽をまたげなくなる。
火の管理が難しくなる。
掃除やゴミ出しができなくなる。
食品管理ができなくなる。
ここで重要なのは、すぐに「だから施設へ行くべきだ」と結論づけることではありません。
反対に、「本人が自宅を希望しているのだから、ずっと自宅で」と無条件に考えることでもありません。
見るべきなのは、その家で今、どのような生活が実際に行われているのかです。
本人の希望だけでもない。
家族の希望だけでもない。
住宅の性能だけでもない。
本人の能力と、家の状態と、家族や地域の支援を合わせて考える必要があります。
本当は「一人暮らし」ではない高齢者もいる
一人暮らしの高齢者という言葉から、私たちは一人で生活を完結している姿を想像しがちです。
しかし実際には、家族が毎日のように電話をしているかもしれません。
週に何度も食事を届けているかもしれません。
冷蔵庫の中を確認しているかもしれません。
薬を整理しているかもしれません。
掃除をしているかもしれません。
壊れた物を直しているかもしれません。
そして、何か問題が起きるたびに後始末をしているかもしれません。
私の祖母の生活も、そうでした。
住民票の上では一人暮らしだったかもしれない。
家には一人で住んでいた。
しかし、その生活の裏側には、父の存在がありました。
では、父が通えなくなったらどうなっていたのでしょうか。
父自身が病気になったら。
車を運転できなくなったら。
遠方へ引っ越したら。
家族が支えている自宅生活には、こうした脆さがあります。
一人で住んでいるから、一人で暮らせているとは限らない。
住環境を考えるなら、住宅の間取りや設備だけではなく、その家に誰が、どのくらいの頻度で関わることで生活が成立しているのかまで見る必要があります。
住宅改修だけでは解決できない住環境問題がある
福祉住環境というと、手すりや段差解消、スロープ、浴室改修などが思い浮かびます。
もちろん、それらは重要です。
しかし、認知症のある人の住環境では、手すりを付ければ解決するとは限りません。
たとえば台所なら、火の管理はできるのか。
食品の保管はできるのか。
必要な物を見つけられるのか。
浴室なら、お湯の温度を適切に調整できるのか。
入浴したこと自体を覚えているのか。
玄関なら、外出後に戻ってこられるのか。
鍵の管理はできるのか。
こうした問題は、単なる住宅改修では解決できません。
国の研究でも、認知症のある高齢者の住宅環境については、危険行動の防止や転倒防止だけでなく、住宅内の危険物を避けること、物を見つけやすくすること、見守りやすい環境を整えることなどが重要とされています。
つまり、必要なのは「家を直すこと」だけではありません。
本人の認知機能と生活行動に合わせて、環境そのものを調整することです。
そして、それでも自宅生活が難しくなる場合があります。
住環境整備には、大きな力があります。
しかし、何でも住宅改修で解決できるわけではありません。
その限界も含めて考えることが、本当の福祉住環境だと思います。
本人が亡くなっても、家は残る
私の祖母は、最期まで自宅で暮らしました。
そして亡くなった後、今度は家の手続きで大混乱したと聞いています。
私は、このことにも強く思うところがあります。
祖母は突然、何の前触れもなく亡くなったわけではありません。
認知機能の低下がありました。
父が通って後始末をする期間もありました。
家族には、少なくとも「いつか、この家をどうするか考えなければならない」ということを意識する時間はあったはずです。
それでも、実際には十分な整理ができないまま亡くなり、その後に混乱が起きた。
なぜなのでしょうか。
おそらく、目の前の問題への対応に追われるからです。
今日は台所を片付ける。
明日は買い物をする。
病院へ連れて行く。
壊れた物を直す。
何か問題が起きれば対応する。
そうしているうちに、「この人が亡くなった後、この家をどうするのか」という話は後回しになります。
それに、家族にとって、
「あなたが亡くなったら、この家をどうする?」
という話は簡単ではありません。
しかし、本人の認知機能が大きく低下してからでは、本人の意思を確認すること自体が難しくなる場合があります。
そして亡くなれば、今度は相続、名義変更、家財整理、空き家管理など、別の問題が始まります。
ここで重要なのは、相続制度の解説ではありません。
人が住めなくなっても、家は自動的には消えないということです。
人の身体は変わる。
認知機能も変わる。
家族の状況も変わる。
そして人はいずれ亡くなります。
しかし、家はその場所に残ります。
だから住環境は、「今ここで安全に暮らせるか」だけで考えてはいけないのだと思います。
「最後まで自宅で」を実現するなら、その後まで考える
最後まで自宅で暮らしたい。
その願いを否定する必要はありません。
私の祖母も、実際に亡くなる直前まで自宅で暮らしました。
しかし、その生活の裏側では父が通い、後始末を続けていました。
そして祖母が亡くなった後には、家をめぐる手続きで混乱が起きました。
だから私は、「最後まで自宅で暮らせた」という結果だけを見て、それを成功だったと簡単には言えないと思っています。
本人はどう暮らしていたのか。
その生活を誰が支えていたのか。
家族にどれだけの負担があったのか。
住宅の中で何が起きていたのか。
そして、本人がいなくなった後、その家を誰が引き受けるのか。
そこまで見て初めて、「自宅で暮らす」ということの全体像が見えてきます。
住環境は、人が生きている間だけの問題ではない
住宅改修をするとき、私たちは目の前の生活を見ます。
どうすればトイレへ行けるか。
どうすれば入浴できるか。
どうすれば玄関を出入りできるか。
もちろん、それは大切です。
しかし、高齢社会が進むこれからは、もう少し長い時間軸で家を見る必要があるのではないでしょうか。
今、この人はこの家で暮らせるのか。
数年後、身体や認知機能が変わったときにも暮らせるのか。
家族は支え続けられるのか。
そして本人が住まなくなった後、この家はどうなるのか。
住まいは、人生の背景ではありません。
人の身体機能、認知機能、家族関係、介護、地域とのつながりによって、その意味を変えていきます。
「住み慣れた家だから大丈夫」ではない。
大切なのは、その人とその家の関係が、今どうなっているのかを見ることです。
私の祖母は、亡くなる直前まで自宅にいました。
しかし、その家で何が起き、誰が支え、そしてその後に何が残ったのかを考えると、「最期まで自宅で暮らした」という一言だけでは到底表せません。
家は、人が住んでいる間だけ存在するものではありません。
だからこそ、住環境を考えるということは、今の暮らしだけでなく、その先に残る家まで考えることなのだと思います。
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福祉住環境研究所では、作業療法士・宅地建物取引士・ファイナンシャルプランナーとしての専門性と、福祉事業所を運営してきた現場経験を生かし、住まい・福祉・地域・お金を横断する講演や研修を行っています。
・空き家対策と地方創生
・住める住宅と暮らし続けられる地域の違い
・地方における医療、交通、買い物、福祉の課題
・高齢者や障害のある方の居住支援
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