「津波警報が発表されました。直ちに避難してください」
災害が起きれば、テレビやスマートフォンから避難を呼びかける情報が流れます。
しかし、その言葉を聞くたびに私は思います。
すべての人が、本当に「直ちに避難」できるのでしょうか。
ベッドから一人で起き上がれない人がいます。
靴を履くことに時間がかかる人がいます。
杖や歩行器がなければ歩けない人がいます。
車椅子では玄関の段差を越えられない人がいます。
認知症のため、なぜ避難しなければならないのか理解することが難しい人もいます。
災害時の避難というと、非常食や水、防災バッグなどの備蓄が注目されます。
もちろん、それらも重要です。
しかし福祉住環境という視点から考えれば、その前に確認しなければならないことがあります。
そもそも、その人は自宅や施設から外へ出られるのでしょうか。
そして外へ出た後、本当に避難所まで移動できるのでしょうか。
私は実際に、福祉事業所で利用者を避難誘導した経験があります。
そのとき、わずか300mほどの距離を移動するのに、15分近くかかりました。
大きな混乱もありませんでした。
道路が寸断されていたわけでもありません。
それでも、それだけの時間がかかったのです。
海から約200mの事業所に津波警報が出た
私が運営する福祉事業所は、海から約200mの場所にあります。
ある日、海外で大きな地震が発生し、津波警報が出ました。
午前9時30分頃だったと記憶しています。
地形上、事業所のある場所まで大きな津波が来る可能性は低いのではないかと個人的には考えていました。
しかし、スマートフォンの緊急アラームが何度も鳴ります。
そして何より、福祉事業所として避難指示を無視するわけにはいきません。
当時、職員は3人。
利用者は7〜8人ほどいました。
その中には、片麻痺のある方が2人、靱帯骨化症のある方もいました。
私たちは、事前に避難先として指定していた約300m先の施設まで、徒歩で避難することにしました。
結果として、その300mほどを移動するのに15分近くかかりました。
健康な成人なら、数分で歩ける距離かもしれません。
しかし、福祉事業所の集団避難ではそうはいきません。
歩行速度の遅い人に合わせる。
転倒しないように見守る。
車の動きを確認する。
集団が離れないようにする。
職員3人で7〜8人を誘導する。
一人だけ先に着けばいいわけではありません。
全員が安全に到着して初めて、避難できたと言えるからです。
今回は「条件のいい避難」だった
振り返ってみると、私たちの避難は、災害時としてはかなり条件のいいものでした。
道路は壊れていませんでした。
瓦礫もありませんでした。
停電もありませんでした。
積雪もありませんでした。
吹雪でもありませんでした。
大雨でもありませんでした。
誰かが転倒したわけでもありません。
利用者が大きくパニックになったわけでもありません。
そして、地域柄、大渋滞が起きたわけでもありません。
それでも、300mに15分近くかかりました。
もし、これが冬だったらどうでしょうか。
路面が凍結していたら。
積雪で歩道が狭くなっていたら。
夜間だったら。
停電していたら。
瓦礫が道をふさいでいたら。
大雨や強風だったら。
職員が少ない時間帯だったら。
誰かが転倒したら。
条件が一つ変わるだけで、避難の難易度は大きく上がります。
災害時の避難を考えるとき、地図上の「避難所まで300m」という数字だけを見ても、その人が本当に避難できるかは分かりません。
同じ300mでも、誰が、どのような身体状態で、どのような道を移動するのかによって、その意味は全く違います。
避難は玄関を出る前から始まっている
避難というと、家から避難所までの移動を想像します。
しかし、高齢者や障害者の場合、その前にいくつもの壁があります。
まず、ベッドや椅子から立ち上がれるか。
着替えられるか。
靴を履けるか。
薬を持てるか。
杖や歩行器を準備できるか。
車椅子へ移乗できるか。
玄関まで移動できるか。
そして玄関に段差があれば、それを越えられるか。
普段の住宅改修では、数cmの段差について慎重に考えます。
手すりの位置を考えます。
廊下の幅を測ります。
浴槽をまたげるか評価します。
ところが災害になると、突然、
「避難所まで避難してください」
という一言になります。
しかし、普段から一人で玄関を出ることが難しい人が、災害のときだけ急に避難できるはずはありません。
災害時の避難能力は、日常生活から切り離された特別な能力ではないのです。
普段、どのようにベッドから起きているのか。
どうやって玄関を出ているのか。
何を使って歩いているのか。
誰の助けが必要なのか。
それが、そのまま災害時の避難にもつながります。
家の外に出ても、住環境の問題は続く
玄関を出れば、避難できたわけではありません。
その先には道路があります。
歩道の段差があります。
傾斜があります。
側溝があります。
砂利道もあります。
雪国なら積雪や凍結があります。
そして災害時には、普段より車の量が増えることもあります。
私たちが避難したときも、地域柄、道路が混雑するほどではありませんでしたが、普段より車の量は増えていました。
徒歩で避難する集団にとって、車が増えることは無視できません。
片麻痺がある人は、道路の傾斜によってバランスを崩しやすくなることがあります。
歩行速度が遅ければ、信号を一度で渡り切れないこともあります。
歩行器や車椅子なら、数cmの段差でも進めないことがあります。
つまり避難経路もまた、福祉住環境の一部です。
住宅だけをバリアフリーにしても、家から避難所までの道が移動できなければ、災害時には意味を持ちません。
車があっても、車で逃げられるとは限らない
高齢者や障害者の避難について考えると、
「車で避難すればいい」
という話が出ることがあります。
しかし、現実はそれほど単純ではありません。
私たちの事業所には7〜8人の利用者がいました。
職員は3人です。
全員を一度に車で運べるのか。
誰が運転するのか。
複数回往復する時間はあるのか。
その間、残った利用者を誰が見るのか。
車椅子を積めるのか。
道路が渋滞していたらどうするのか。
道路そのものが通れなかったらどうするのか。
特に津波避難では、車の集中による渋滞が避難を妨げる可能性もあります。
車は重要な移動手段です。
しかし、車があることと、災害時に車で避難できることは同じではありません。
ここでも必要なのは、実際の条件で考えることです。
避難所に着いたら、それで終わりなのか
私たちは約300m先の指定施設へ到着しました。
そこで基本的には、座って待ちました。
結果として大きな被害はなく、その後解散しました。
2〜3時間程度なら、何とか過ごせます。
しかし、これが6時間だったらどうでしょうか。
一晩だったら。
二日間だったら。
片麻痺のある人は、長時間同じ姿勢で過ごせるでしょうか。
床に座った場合、一人で立ち上がれるでしょうか。
靱帯骨化症のある人が、長時間同じ場所で過ごすことで痛みやしびれが悪化しないでしょうか。
トイレは使えるでしょうか。
手すりはあるでしょうか。
車椅子で入れるでしょうか。
必要な薬はあるでしょうか。
精神障害のある人が、大勢の知らない人の中で長時間過ごせるでしょうか。
認知症の人が、慣れない場所で混乱しないでしょうか。
避難できた。
避難所に着いた。
それで問題が解決したわけではありません。
避難とは、目的地に到着することではなく、そこで安全に生活を続けられるところまで考える必要があります。
これは、まさに福祉住環境の問題です。
指定避難所だから、誰でも過ごせるとは限らない
避難所に指定されている施設だからといって、すべての高齢者や障害者が問題なく過ごせるとは限りません。
入口に段差はないか。
車椅子で入れるか。
トイレは使えるか。
洋式便器はあるか。
手すりはあるか。
横になれる場所はあるか。
椅子はあるか。
静かな場所を確保できるか。
電源は使えるか。
薬を保管できるか。
避難所の収容人数だけでは、こうしたことは分かりません。
大切なのは、
「何人入れるか」だけではなく、「誰がそこで過ごせるのか」
という視点です。
普段の生活では、身体機能に合わせて手すりを付け、福祉用具を使い、ベッドの高さを調整します。
しかし避難所へ行けば、その人に合わせて整えてきた環境はなくなります。
災害によって家を離れるということは、単に場所を移動するだけではありません。
普段その人の生活を支えていた住環境を失うことでもあるのです。
では、災害が起きる前に何をすればいいのか
防災というと、水や食料の備蓄、防災バッグの準備が中心になりがちです。
もちろん必要です。
しかし、高齢者や障害者がいる家庭や福祉事業所では、それだけでは足りません。
まず必要なのは、実際に避難してみることです。
地図で300mと確認するだけではありません。
実際に、最も移動に時間がかかる人と一緒に歩く。
何分かかるのか測る。
どこに段差があるのか。
どこで休憩が必要になるのか。
信号を渡り切れるのか。
雨の日はどうか。
冬はどうか。
夜間ならどうか。
実際に動かなければ分からないことがあります。
次に、避難先を確認します。
入口は使えるか。
トイレは使えるか。
長時間座っていられるか。
横になる場所はあるか。
薬や医療機器はどうするか。
数時間ではなく、一晩過ごすことになったらどうなるか。
そして家庭でも事業所でも、
誰が誰を支援するのか。
誰が薬を持つのか。
誰が人数を確認するのか。
職員や家族が一人少なかったらどうするのか。
そこまで具体的に決めておく必要があります。
「避難所を知っている」ことと、「実際に避難できる」ことは違います。
災害時に逃げ遅れる可能性を事前に見つけるチェックリスト
災害が起きてから初めて避難能力を確認するのでは遅すぎます。
高齢者や障害者本人の自宅、あるいは福祉事業所で、次の項目を確認してみてください。
□ ベッドや椅子から一人で立ち上がれない
避難指示が出ても、最初の動作から介助が必要になります。
□ 靴を履き、必要な杖や装具を準備するのに時間がかかる
避難時間は玄関を出てからではなく、準備を始めた瞬間から考える必要があります。
□ 玄関まで一人で移動できない
家族や職員がいなければ、避難そのものが始まりません。
□ 玄関に一人では越えられない段差がある
普段は介助者がいても、災害時に同じ支援を受けられるとは限りません。
□ 避難所まで実際に歩いたことがない
地図上の距離と、本人が実際に移動できる距離は違います。
□ 300mを休まず歩くことが難しい
短い距離でも、集団避難や悪天候ではさらに時間がかかります。
□ 夜間や停電時には移動が難しい
照明がなければ、普段歩ける場所でも転倒リスクが高まります。
□ エレベーターが止まると建物から出られない
集合住宅では特に重要な確認項目です。
□ 家族や職員が来なければ避難できない
災害時に、その人が必ず来られるとは限りません。
□ 避難先のトイレを使えるか確認していない
避難所に着いても、排泄できなければ長時間滞在は困難です。
□ 必要な薬をすぐ持ち出せる状態にしていない
薬の名前や量が分からなければ、避難が長期化したときに困る可能性があります。
□ 数時間、椅子や床で過ごすことが難しい
避難所での生活そのものが身体的負担になることがあります。
□ 大勢の人がいる環境で過ごすことが難しい
精神障害、発達障害、認知症などがある人では、避難所環境そのものが大きな負担になる場合があります。
一つ当てはまったからといって、避難できないと決まるわけではありません。
重要なのは、どこで時間がかかり、どこで支援が必要になるのかを災害前に知ることです。
「避難してください」の一言で終わらせない
私たちの事業所は、約300mを避難するのに15分近くかかりました。
そして今回は、道路も壊れていませんでした。
雪もありませんでした。
停電もありませんでした。
大きな混乱もありませんでした。
それでも15分です。
本当の災害では、もっと悪い条件が重なるかもしれません。
だから私は、「避難してください」という一言だけでは足りないと思っています。
その人はベッドから起きられるのか。
玄関を出られるのか。
300m歩けるのか。
道路を安全に渡れるのか。
避難所のトイレを使えるのか。
数時間、あるいは一晩過ごせるのか。
避難とは、点ではなく、生活動作の連続です。
そして、その一つひとつに身体機能と住環境が関係しています。
災害時に突然できるようになることはありません。
だからこそ平時に、実際の身体で、実際の玄関から出て、実際の道を通り、実際の避難先まで行ってみる。
防災用品をそろえることと同じくらい、それが必要なのではないでしょうか。
福祉住環境とは、日常生活を便利にするためだけのものではありません。
非常時に、その人が本当に逃げられるのか。そして逃げた先でも生活を続けられるのか。
そこまで考えることも、これからの福祉住環境に必要な視点だと思います。
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